2005年05月16日

底辺なもの31 身近な宗教

昨日、DVDで映画「21g」を見たのですが、
その中に盲信的とも言えるほどキリスト教を信じきっている、
元無神論者の荒くれ者が出てきます。

それを見て、感じるところがあったので
今日はキリスト教について書く事にしました。

私の実家は浄土真宗だったりしますけど
ごくごく一般的な日本人と同様、
宗教に触れる機会はお葬式くらいなもんです。

ただし、幼稚園だけはなぜかミッション系の幼稚園に通っていました。

理由は別にそういう教育を親が望んだ、というわけではなく
単に家から近かった、というだけのことでした。

私は幼い頃の記憶が人一倍少なくて困ってしまうのですが
幼稚園の頃の記憶なんてもうほとんどありません。

幼稚園の頃だけでなく、
小学校時代の記憶もかなり曖昧です。
ひょっとして思い出したくない事でもあるんじゃないかと
思うくらいですけど(笑)

そんな中、私が幼い時に一貫して強く感じていた事があります。

「はやく大人になりたい」

大人に憧れるとか、ただのおませさんということではなくて、
とにかく子供である事によって、不便な事がいっぱいあることが
許しがたかった。
子供だからって許される事って、今から思うといろいろあると思うんですけど
意識っていうのは、できないことにすごくフォーカスされるんですよね。

お金がないからどこにも行けないし、
どこに行ったらいいのかもわからない。
知識がないからニュースをみたって全然わからない。
お父さんとお母さんが何か話をしているのも全然わからない。
自分が本気で考えていることも「子供の話」としか
思ってもらえない。

それに今自分の見えている世界が全てで、
ひとつうまくいかないことがあると、
あたかも世界が崩れ去ってしまうような、
そんな怖さにいつもおびえていました。

自分の世界の狭さに気付くことができなくて、
その中でもがくしかできなかった、とでも言いましょうか。

だから早く大人になりたかった。

…ひょっとして暗かった?(笑)

というわけで、
そんな思いがベースにある子供時代、
ロクな思い出はないのですが…

私が通っていたミッション系の幼稚園っていうのは、
園長先生が神父さんで、園長室はいつもドアが開いています。
休憩時間には自由に遊びに行く事ができて、私も行った記憶があります。
そしてものすごく優しい方だったのをうっすら覚えています。

担任の先生はよくイエス様の話やらしてくれたし
教室にはキリスト教のいろんな寓話を書いた絵本がいっぱいあって
それぞれが好きな事をできる自由時間がとても楽しみでした。

イベントごと、特にクリスマスはたぶん一年で一番盛大なイベントが催されて、
毎年園長先生からプレゼントがもらえたりします。

それは小さな陶器のマリア像だったり、
赤い石の中にマリア様の像がかたどってあるペンダントだったり、
子供にとってはあまり嬉しくない代物もありましたが、
でもすごく邪険に扱ってはいけないものだ、ということは
幼心にわかっていたような気がします。

…私が思い出せる幼稚園時代の話ももう残りわずかですが(笑)
そんな幼稚園の最後の日、卒園式のときに、
担任の先生が私に向かって、こういったのです。

「キリスト様はね、ここを出たっていなくならないの。
 目には見えないけど、ずっとあなたのそばで見ていてくれるからね。」

幼稚園の子供たちは、
教室にあるキリスト像に向かって、朝と帰るときの2回、
毎日お祈りをします。
イエス様はそこからいつも自分たちのことを見守ってくれている、と
教えられています。

だから、いつも幼稚園にいけば何か大きなものに守られているような、
そんな安心感があったような気がします。
卒園すればそれがなくなってしまうから、
私はきっと不安に感じていたのでしょう。
それを察しての言葉じゃないかと、推測します。

その言葉を聞いてからしばらくの間、
私のすぐ右横に、キリスト様がいるんだ、って思い込んで(笑)
とても心強く感じて日々を過ごした記憶があります。

成人した今でも、
どんなにひとりのときも、キリスト様は傍で見守っていてくれるんだと
心のどこかで思っていたりします。びっくり。

他にもキリストの教えは、三つ子のたましいとでも言いましょうか、
いろんな場面でひょっこり顔を出しますけれども
私の人生観にも大いに影響を与えています。

キリスト教では、全ての人の人生のあらゆる出来事は、
あらかじめ神様が決めていることで、
今までに起きた事、これから起こる嬉しい事も悲しい事もすべて
神様の思し召しなのだと教えられます。

そう思う事で、悲しい事が起きても悲しみが少し和らぐし
嬉しい事が起きればより神様への感謝の気持ちが強くなる。
信仰が代々伝わっていくメカニズムがうまいことできているなぁと
今は感じるわけですけれど。

たった2年間いただけの幼稚園で、
ものすごくたくさんのものを教えられたような気がします。

というわけでキリスト教に関しては
ちょっと身近に感じていたりしますが
それにしてもあんなに早く大人になりたいって思っていたのに
いざ大人と言われる年齢になってみると
あんまり中身変わってない感じが…

今もまだ、違う意味で「大人になりたい」、と思う事が多い
底辺ズでした。
posted by 底辺ズ隊員 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月13日

底辺なもの30 哲学的子供時代

この2日間、不本意ながらネタに困っておりました。

というのも、私のブログにはいくつかのカテゴリがありますが、
その中の「哲学」の記事がまだ1つしか書いていなかったのですね。

何か哲学に関する事を書かねば…と考えて
いくつかのテーマについて書きはじめたのはいいのですが、
どれもなんだかうまくまとまらなく、
もごもごしているうちに
2日空いてしまったというわけなのでした…。

結局今日電車の中で思いついたネタにします。

哲学の本は、一般向けの入門書しか持っていないんですけど、
まだ哲学について興味を持ちはじめたばかりの頃。

ひとつ、自分の中ですごい発見をしました。

…哲学のネタ(命題)になることって、
私が子どもの頃に考えていたことが多かったりします。

人はなんで死んじゃうんだろう、とか
どうして人を殺しちゃいけないんだろう、とか
どうして文字があるんだろう、とか
どうして言葉が読めるんだろう、とか。

それはそれは子どもの「なんで?」をつきつめたところに
哲学があるっていうことも一部には言えると思うんですよね。

子どもの頃に考えていた疑問に、
いちいち大マジメに理屈をこねている、
っていうように見えたりするんですよ。

哲学に縁もなく生きていける人は、
そんなことを疑問にも思わず、やり過ごす事ができる。

でも子どもの頃の疑問をうっかり忘れられなかったり
思い出してしまった人のために、
哲学っていう学問はあるんだと感じます。

だから学問っていうよりは、
ある意味道に迷ったときの、
あまり当てにならない道しるべみたいなもの。

というのも、いろんな哲学者がそれぞれの命題について、
各々の答えを出しているけれども
決してそれが正しいとは限らない。
つまりそれが正しい道(=本人が納得できる)かどうかは
本人にしかわからないのです。

それぞれの命題について、
自分のしっくりくる答えを考えだすか、
山のようにある書物の中から探し出すしかない。

何だか学問というよりも修行に近いような、
それはそれはストイックな作業のように思います。

話が逸れてしまいましたけれども、
子どもの頃にものすごく疑問に思った事がありました。

「鏡に見えている自分は、
 他の人にもほんとうにそんな風に見えているの?」

忘れもしない、小学4年生の頃。
私は小学校のブラスバンド部に所属して、
トランペットなぞを吹いておりました。

音楽室には大きな鏡があって、
楽器の持ち方とか、マウスピースの当て方とか
チェックする習慣になっておりましたので、
何かと鏡の前に立つ時間が長かったというのもありますが、
ある日それまで幼いときからずーっと疑問に思っていたことを
同級生に聞いてみました。

「○○ちゃんの見えている私って、鏡に映っているのといっしょ?」

当然の事ながら、「一緒だよ」と友達は答えました。
それで少し安心したのを覚えています。

ただし、やはりその友達が気をつかっているのかもしれない、とか
ほんとはものすごく変な顔をしているんじゃないかとか
それを確認するすべは、どこにもないという事実は変わりません。

たとえ写真や映像で自分の姿を映されたとしても
自分の肉眼で自分のありのままの姿を見る事はできない。

レンズや鏡というガラスのフィルターを通してしか、自分を確認できない。
その事実が、ものすごく怖く思えた記憶があります。

宇宙の一番外側の境目から宇宙の外を覗き込むと
自分の後頭部が見える、って誰かから聞いたときと同じような怖さ。
(あれ、ブラックホールでしたっけ?)

今でもたまに、鏡を見てメイクしているときに
ふと幼い頃の自分を思い出して笑っちゃう事がありますが、
もし鏡に見えている自分が違うのだとしたら、
やっぱり今でもそれはもう恐ろしくてたまりません。

そういったことについても、
ものすごく深く考えている人がいたりするのが
哲学の世界。

自分と他人との違いは何なのか?とか。
世界と自分の境目はどこなのか?とか。
自分はどこに存在するのか?とか。

考えすぎちゃって足のうらに接している
大地も自分だー、なんて言ってる人もいます。

でもひとつひとつその人の言う理屈を聞いてみると、
なるほどね、って思えちゃう懐の深さが
他の学問にはないところだと思います。

そんな私が最近買った哲学の本は
「<反>哲学教科書」

この本を書いたのは、
フランスのリセの哲学教師なんですけれども。

まえがきによれば、
いくら哲学が義務教育として定められているからといって、
哲学の授業を生徒が目を輝かせて受けているわけではなくて、
歴代の哲学者の教えをブツブツ覚えるだけだったり
ひたすらつまんない授業をする先生もたくさんいるようで
(ここらへんはとても親近感わきますよね)
そういうフランスの学生向けに授業形式で書かれた
哲学の教科書ともいえる本です。

いろんなトピックがあって、
まず先生の見解が書いてある。
そのあとに、先生がピックアップした
先達の「テクスト」と呼ばれる、名著からの引用文が
少しずつ並べて書いてあります。

中にはニーチェとか、カントとか、
難解で敬遠しがちな哲学者のものもありますが
それぞれの記事が短いので、脳みそがギブアップする前に戻って来れる(笑)
へぇー、へぇー、と思いながら、
最近興味のあるトピックから少しずつ読んでいるところです。

皆さんは子どもの頃にどんなことを考えていましたか?

それを思い出せなくなっているなら、
きっとちゃんと大人になった証拠なのでしょう。
私もいろいろ考えていたに違いないのですが
今では鏡の事以外には思い出す事ができません。

そんな子どもの頃の自分に会うのを楽しみに、
哲学の教科書を開く底辺ズでした。

皆様よい週末を。
posted by 底辺ズ隊員 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月07日

底辺なもの9 哲学

今日のテーマは哲学。

なんで哲学なんて…という疑問は当然のことと思います。
実際学生の頃、哲学の授業なんて避けて通ってました。
ただ眠いだけの、私の興味の範疇に入る気配すらありませんでした。

それがなぜ底辺なものとなったのか。

それは前述の本好き、というところに行き着きます。

ハードカバーの本を手当たり次第買いまくって
月2万円も本代にかけていた時期があったことは
前にも書きましたが、
文芸誌購読という方法を発見する前、
どうにかこの読書のペースを落とす方法は無いものかと
考えていた訳です。

活字中毒気味の私の読書ペースを変えることなく
知的好奇心を満たす方法とは。

ちなみに図書館に行けばいいやん、というのはナシですよ。
それがお金がかからなくていいというのはわかっているのですが
底辺ズ的思想からすると
自分を満たしてくれる活字を提供してくれる作家に対して
お金を払わないのはフェアじゃないような気がして。
…って文字にしてみると危険思想ですね。
考え直した方が良いような気がしてきますけど…。

ともかく、お金を払って本を買うという前提で
でも現実問題収入は限られており。

そんなわけで、読書のペースをせめて落とせないかと考えました。
浮かんだのは「難解な本を読む」。

そして「難解」→「哲学」にたどりついたと。

…こんな形で哲学にたどり着く人はそうそういないでしょう…
哲学者が聞いたら嘆き悲しむに違いありません。

まぁ入り口の動機はなんにせよ、
哲学の本を読んで読書のペースは落ち、
本代もかからなくなりました。
なんせ読了することすらままならないのですから。

実際最初の3ページくらいを何度も何度も読むのですが
こんなにわからない日本語をよくもまぁ並べられるものだと
感心しつつもそれはそれで苦痛。
わかってはいましたけれど、普段活字好きと言っている私としては
そんなに難解な日本語を目の前にして黙って引き下がるわけには行きません。

基礎知識も無いのに最初からハイデガーやらサルトルやら
読めると思う私も私ですが…無知ってのは怖いものです。

というわけで、仕切り直して
改めて本屋の哲学書コーナーの前に立ってみました。
そしてもうこの世にはいない歴史的な外国の哲学者の著作ではなく
日本人の、現在進行形で哲学を展開している本を手に取ってみました。

何かで読んだのですが、
西洋思想というのは西洋の文化に基づいたものなので
フランス語やら西欧の言語の発想で生まれたもの。
よって日本語にはない単語も多々あり、
したがってフランス語ではすんなり理解できる事が
日本語に無理に訳すことによって
不必要に難解になっていることが多いのだとか。

というわけで
哲学を学ぶには前提として自然に理解できる言葉でないと
ダメだよなー、と思って日本語の本を選びました。

哲学と言うと、
大学で買う教科書のような本を連想してしまいますが
巷には一般の人向けに書かれた哲学の本も多々出回っていて
割とお手軽に哲学に触れる事ができるのです。

その中で知った事なんですが、
哲学というのは本来誰の中にもある根源的な問いに答えるもの。
なぜ生きているのか?なぜ死ぬのか?
なぜ自殺しちゃいけないのか?
なぜ生まれてきたのか?なぜ働かなきゃいけないのか?
なぜ自分がここにいるのか?
…などなど。

それをいろんな言葉でつきつめていった結果が
哲学という学問のはじまりだということ。

紀元前の哲学者が、科学者でもあり医者でもあり…なんてことがあるのも
なんとなく納得です。

そんなこと誰も教えてくれなかったなぁー。
そういうことを中学や高校でちゃんと学ぶフランス人に
優れた哲学者が多いのもめちゃめちゃうなずけるというものです。
フランスには義務教育で哲学の授業があるのだとか。
日本の道徳なんてものとは比べ物になりませんね。

ちゃんと物事をつきつめて考えて、
自分なりの答えを出す。
そのプロセスを経ることで人生の彩りも
少々変わってくるのではないかと、常々思います。

そしてその手助けとして、
先達の確立した哲学という学問が存在している。
…と数冊の入門書を読んで私はそう受け止めました。

実際哲学をかじる前と今とでは、
少しだけ世界が違って見えます。

私が入門書として選んだ本はいくつかあるのですが、
そのなかでも面白かったのが
鷲田清一「死なないでいる理由」。
もうタイトルだけでゾクゾクしちゃいますね。
死ぬ理由がある、っていう人はいても
死なないでいる理由について語る人はあまりいませんから。
実際目からウロコ的な記述がたくさんありました。

ともあれ底辺ズ的思想も、
ちゃんとこうやって文字にしてつきつめて考えて、
固めていきたいなーなんて思うこの頃です。
posted by 底辺ズ隊員 at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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